『地球に落ちて来た男』の劇場公開を記念して、boidマガジン(8月より復刊)の好評の連載のひとつ「映画川」を特別にboidのHPにて公開します。今回は川口敦子さんによる『地球に落ちて来た男』評です。たっぷりお楽しみください。また劇場でもぜひ本作をご覧くださいませ。
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N・ローグをめぐる記憶の遺伝子をたどって
文=川口敦子
もちろんその絶頂期の美しさを確認し得るだけでもデヴィッド・ボウイの映画初主演作『地球に落ちて来た男』は忘れ難い。ニューメキシコの砂漠でも厚地の ダッフルコートを纏って尚、涼やかな佇まい! エレベーターの上昇ですっと鼻血をにじませる素敵に覚束ない佇まい! 76年、監督ニコラス・ローグの下、 自ら演じたエイリアン――老いることを知らぬまま帰れない故郷の星を思い、降り積もる記憶に倦んで過ぎない時を持て余すトーマス・ジェローム・ニュートン ――彼を、ボウイが昨年の舞台作「ラザルス」で蘇らせていた、多分、自らの死を視界に入れた時点で懐かしく再訪したいキャラクターなのだったと、そんな事 実を噛みしめれば、『地球に~』はボウイのいない16年1月以後の世界を生きていく観客にいっそう忘れ難く迫りくる。
枯れた星に持ち帰る水の代わりに地球の汚れを象るようなアルコールに溺れたニュートンが深く深く頭を垂れ、銀幕の視界を帽子が塞ぐエンディング。そこに 満ちていく絶望を「スターダスト」の憂愁のメロディが縁取る。曲名が否応なしに73年、ボウイの脱ぎ捨てたペルソナの記憶の星屑を召喚する。同時に映画が 終わりの曲を奏でるアーティ・ショウ楽団の長にさりげなく目配せしているのも見逃せない。映画『ハスラー』の原作者ウォルター・テヴィスのSF小 説”The Man Who Fell To Earth”の映画化権を手に入れて自ら脚色に当たっていたのが他ならぬショウだった(NYタイムズ66年3月4日)。と、じくじくと胸を疼かせる結末に 埋め込まれたレイヤーは、一つの瞬間からそこにいる人の数だけの記憶が生まれるこの世界の相対性をふるふると見守って在ることの不安を増殖させる監督ロー グの手際を改めて吟味したい気持ちへと駆り立てもする。『パフォーマンス』のロンドン、『赤い影』のベニス、『美しき冒険旅行』のオーストラリアの荒野、 『ジェラシー』のウィーン。都市の、あるいは異郷の迷路に囚われていくローグの映画の人々は異星から(もしくはそう見える未来の地球から)今に降り立っ て”囚人”となるニュートンと変わりない行路をなぞる。時と記憶に苛まれる存在が繰り返す同じひとつの物語。それを「とるにたりないこと」(『マリリンと アインシュタイン』原題)と突き放しつつ90年9月東京での取材時、ローグは薄い笑いを浮かべてみせたけれど、時と記憶と人をめぐる所在なさの物語を誰よ りも深刻に引き受ける覚悟は彼の映画に鮮やかに刻印されている。
「記憶の遺伝を信じている。この記憶を私は遺伝子の中に生き残らせなくてはならないし子供たちはそれを生かしていくだろう。ならば人類の集合的記憶という ものもあると思える。人類も世界も目には見えない法則で結ばれている。直線的な時間が果たして存在するのか、私は疑問に思っている。総ては瞬間に属してい る。過ぎ行く時の中で私たちの命はいかにも儚いものだと思う」
ローグの発言を反芻してみると『地球に~』のロケ地に父ボウイを訪ねていたゾウイ、後のダンカン・ジョーンズが『月に囚われた男』を撮るのも世界の法則 の結果などと口走りたくもなってくる。それはともかく自身の撮る映画そのままに時系列を無視して記憶を往還する型破りの自伝”The World is Ever Changing”(『地球に~』の台詞を書名にしている)をものしてもいるローグを筆頭として70年代、わかり易くリニアに進行する物語などに目もくれ ない〝難解〟な映画や監督が当り前に愛されていた、そんな時代があったこともこの際、みつめ直しておきたい。そういえば『時は乱れて』なんて著作もある 〝一筋縄ではいかない系〟フィリップ・K・ディックは『地球に~』に触発されて『ヴァリス』を書いている。ベン・ウィートリーのメガホンで完成したJ・ G・バラード原作の『ハイライズ』はそもそも製作ジェレミー・トーマスがローグと脚本家ポール・マイヤーズバーグの『地球に~』コンビで刊行直後に映画化 を企画していたという。そのトーマスと初めて組んだ『ジェラシー』の原題”Bad Timing”にかけて「『地球に~』もバッド・タイミングだった。ジョージ・ルーカスのあの一作(『スター・ウォーズ』)とほぼ同時に公開されたのだか ら」(ガーディアン 11年3月10日)とローグが回想しているのも興味深い。米公開時のNYタイムズ紙(76年6月6日)の評もこれから続々とSF大作の公開が予定されてい ると冒頭でふれているが、アメリカン・ニューシネマが終息に向かい、誰にもわかり易いハリウッドならではの娯楽大作へと映画界が回帰していく80年代を前 に、米公開版『地球に~』は4か所、30分に近いカットを被っている。しかも往時、ニューヨークのアートハウスを軸に”オルタナティブ”なシネマの時空の 実りをもたらしたドナルド・ルゴフによってそれが断行されていること(NYタイムズ76年8月22日)。アートシネマの、そうしてローグの時代の翳りとは 裏腹に11年英国映画テレビ芸術アカデミー主催の回顧特集時にはソダーバーグやクリストファー・ノーランらがローグに献辞を捧げ〝記憶の遺伝子〟の確実な 継承を証している。個人的にはやはりトッド・ヘインズとの結び目を重視したい。『エデンより彼方に』での電話取材の最後にローグはお好きと水を向けると語 り手の声が明らかに活気づいた。今回、見直したら地球に降り立ったニュートンが砂漠で開拓時代の農民一家と遭遇する瞬間のタイムトリップ場面にヘインズの 『アイム・ノット・ゼア』の時の旅が重なって思わず胸が高鳴った。先のNYタイムズ紙のカットに関する記事の中で失禁やピストルとセックスの描写をはねつ けるアメリカの価値感を「異文化」による検閲と、英国から来た”エイリアン”ローグは揶揄している。彼の『地球に~』が、さらにはその続編と呼びたい『ト ラック29』が詰まる所、アメリカを俎板に乗せているのを確認すれば、アメリカのポップ文化史を映画で描こうとするようなヘインズの『地球に~』への、 ローグ映画への、眼差しを改めてきちんと位置づけたいと思う。